国内外でのあれこれ(2)
西アフリカのセネガル国日本大使館への転勤が1980年に決まり、外務省研修所においてフランス語を学び、81年にセネガル国に赴任し、公私共にフランス語での生活が始まりました。その後96年ベルギー国での英・仏語が公用語となっている国際機関である関税協力理事会(CCC、通称世界税関機構:WCO)で勤務することとなるのですが、そこでの仕事の関係で、さらに2001年にセネガル国で開催されたセミナーに講師として参加することとなりました。このことが次の巡りあわせです。
セネガル国(以下当国)には、81年から84年までの3年間在勤していました。
当国はアフリカ大陸の最西端に位置し、面積は19.7万km2(日本の面積の約半分)あり、緯度的にはフィリピン国のマニラあたりになります。当国の北東部から中部にかけてサハラ砂漠の南端に当たる半砂漠地帯であるサヘル地域を抱えています。
当時の人口は約580万人(現在約1850万人)で、その約14.7%の85万人が首都ダカールに住んでいました。
宗教は主にイスラム教ですが、民主化の進んだ文化的な香りの漂う国です。
民族はウォロフ族が約45%と、最大の人口を抱えていました。
気候は雨季(6月-10月)と乾季(11月-5月)の2期で、乾季にはサハラ砂漠からの砂が北風に乗って舞い降りてくる時がしばしばあり、ひどい時には5m先も見えないほどで、車はワイパーを使ってフロントガラスの砂を落とし、また黄色のヘッドライトを点灯しないと先が見えなくて危険でした。
食べ物としては、国民的な料理であるチュブジェン(主にチョッフという魚と様々な野菜そのままのトマトベースでの炊き込みご飯)、ヤッサ・プレ(タマネギとチキンを煮込んだもの)、マフェ(ピーナッツソースを使った羊のシチュー)等があります。知人宅に招待された時にチョブジェンが大きな洗面器のような器に盛られて出てきました。主人夫人が煮込んだ魚や野菜を指で千切り、器を囲んでいる人それぞれの食べている領域に指で弾いて飛ばしてくれます。器を囲んでいる人はその領域内でコメの山を崩しながら食べていれば魚、野菜が飛んできて食べられます。
また、当国はイスラム国ですので、羊、ヤギを重宝します。イスラム教は4人まで妻を娶ることができます(聖戦で主人を亡くした未亡人を妻に娶るというのが本来の趣旨)。イスラム教最大の祭事である陰暦の12月10日に行われるタバスキ(犠牲祭)では、その妻すべてに同じ贈り物をすることとなっており、通常は羊で、しかも同じようなものを贈るということで、黒色の羊はどちらかというと白色より安価であるものの、ご婦人方から白色をせがまれるようです。2人の妻を持つ知人は要望された白色だと出費がかさんで、大変と頭を抱えていました。小生は知人宅で行われたタバスキに招待され、その主人が捌いた羊
の生の内臓を招待客に出すのが慣習ということで出てきましたが、生暖かく少し湯気が出ているようで、さすがに辞退させて頂きました。
当時の在留邦人は、大使館館員、1商社、2水産会社・合弁水産会社漁船船員、JICA(水産)及び国際交流基金(柔道)の専門家、青年海外協力隊員等50数名でした。
そこで、米国、カナダ国、日本国が野球チームを結成し、米国3チーム、カナダ国2チーム、日本国1チームが休日にフランス国軍のベルエールという軍施設にあるグランドで野球大会を行っていました。
また、当国は柔道が盛んで、83年にダカールで開催されたアフリカ柔道大会では、10ケ国余りの参加があり、団体戦で当国が優勝しました。その際各国の選手を引率してきた日本人専門家が当国の専門家を含め6~7名集まり、その活躍ぶりには脅かされました。
(歴 史)
14から16世紀にかけてセネガル国北部のセネガル河流域の大西洋沿岸地方にウォロフ族が独立し、ジョロフ王国を建国しました。しかし、周辺地域の他部族と抗争しているうちにポルトガル国が侵入し、さらにオランダ国、英国、フランス国が植民地争奪戦を繰り広げ、最終的にフランス国が当国を勝ち取るのですが、ご覧のとおりガンビア国という英語圏が当国の真ん中に残ります。
フランス国は、1895年アフリカ大陸の植民地政策を押し進めるため、当国北部にある都市のサン・ルイ市に総督府を設置しました。異国情緒溢れる都市で、その旧市街はコロニアル風の街並みが残り、フランス国の威厳を思わせるような昔の面影を残すところです。
(政 治)
当国は60年にフランス国より独立し、教育者であったサンゴール氏が初代大統領に選出され、親フランス国の穏健左派として国家建設を進め、複数政党制を取り入れるなど今日の民主的な基礎を築きました。80年に同大統領は、20年間務めた同職の引退を表明、憲法の規定により首相職にあったディウフ氏がその後を継ぐこととなり、81年に新大統領に就任しました。
前のサンゴール大統領は詩人で、またフランス国がパリの文化人サークルを公認して学術の最高機関とした、一流と認められた文学・諸分野での学者たちからなる王室管理下にあったアカデミーフランセーズの会員としてアフリカ人の中で初めて選ばれました。
また、当国にクサビのように入り込んでいる面積約1万km2のガンビア国は独自の関税体系を有しており、当国は西アフリカ通貨同盟(UMOA、本部はダカール)に属し関税が統一されていることから、同国から関税の低い商品或いは密輸品が当国に容易に流入しているという状況もあったため、81年のガンビア国でのクーデター事件へのセネガル軍派遣を契機として、セネガンビアという連合国家が82年に形成され、夫々の主権と独立を維持しつつ軍事、経済、外交、通信、水産等の分野、特に両国の関税の統一を掲げていました
(89年に解体)。
ガンビア国には当国と同じ民族がおり、通常ウォロフ語で話しますが、この言語で表せないところは、セネガル人は仏語、ガンビア人は英語で補って会話をするという奇妙な光景を体験しました。
(経 済)
当時は第一次産業が28%、第二次産業が26%、第三次産業が46%となっていましたが、基本的には落花生のモノカルチャーによる農業国で、当国経済の中核的存在として輸出総額の約1/3を占めていました。その他には燐鉱石、水産物で、これらが3大輸出産品となっていました。日本へは燐鉱石、いか、たこ、綿花、生鮮魚等が輸出されていました(現在では、原油、天然ガス等が産出され、輸出されています)。
当時、当国は他国によく見られるような貿易赤字国で、83年には約25%の赤字でした。ただ、貿易上の決済で不足する場合にはフランス国からの財政援助で救済されるような仕組みがあります。もっとも、フランス国の保証を得るためにフランス国庫に外貨獲得額の2/3を預託しなければならないこととなっています。因みに、当時のフランス国の貿易収支を見ると、対先進国貿易では赤字であるものの、対途上国貿易では黒字であり、多額の援助をしながら途上国に多くの商品を売って儲けている構図となっていました。
(通 貨)
通貨はCFA(Communoté Financière Africaine:アフリカ財政共同体)で、UMOAとフランス国との協定により1仏フラン=50CFAフラン(約27円)と固定されていました(現在は1ユーロ=655.95CFAフランに固定)。このCFAフランの使用国は、当国をはじめコートジボワール国、ベニン国、ニジェール国、オートボルタ国、マリ国の6ケ国でした。
小生がパリに出張し、タクシ―に乗った際仏フランを所持していなかったことからこのCFAフランで料金を運転手に支払ったことを覚えています。この時タクシー運転手が仏フランへの換金について尋ねてきたので、銀行に行けば1仏フラン=50CFAで手数料なしに交換できる旨話すと納得していました。
(観 光)
当国は600kmの美しい海岸線を抱えており、ヨーロッパ諸国からの観光客が海水浴、サーフィン、釣り、バーベキュー等で楽しんでいました。小生も知人とよく海に行き、伊勢えび、たこ、貝のトコブシ等を取り、おいしくいただいていました。
また、当国北部のセネガル河デルタの1.6万haに広がる沼や湿地を抱えるジュージ国立公園が71年にでき、80年には世界遺産に登録されました。鳥の国立公園としては世界で3番目の規模を有し、ヨーロッパ等から数百万の鳥が飛来してくるといわれています。フラミンゴ、モモイロ・ペリカン、ムラサキサギ、シラサギ、レンカク等約400種が確認さ
れており、バードウォッチングが楽しめます。さらに、奴隷の積出港となったゴレ島や、塩湖のラックローズ等も観光地として有名です。また、市街地にサンダガ市場があり、種々のものを売っているのですが、中にはカラフルな布地も売っていて、日本製と記したラベルを付した布も多く見られました。当国婦人たちはこれを衣装として纏っており、時には友人と衣装を交換して楽しんでいるところもありました。
また、次のような大イベントがありました。
(信任状捧呈式)
新しく当国に駐在する日本大使として着任された平岡氏(三島由紀夫の実弟)が大統領官邸で行われる信任状捧呈式に臨まれ、館員5名も随伴しました。信任状捧呈式とは、この者を外交官として認めて頂きたい旨記された日本国天皇からセネガル国大統領への親書を渡す儀式です。当時の大統領はディウフ氏で、諸外国でよく見られる軍人上がりではなく、高度な専門知識や技術を背景に政策立案や行政運営を担うテクノクラート出身です。ディウフ大統領は2m7cmの細身の長身です。
(パリ・ダカールラリー)
このラリーは、毎年1月1日に乗用車部門、トラック部門及び二輪車部門の各車両がパリのコンコルド広場を出発し、同国南部からフェリーでアルジェリア国にわたり、その後マリ国、ニジェール国、コートジボワール国等を通過し、最終地である当国のダカールに1月20日頃到着するというもので、84年には全部門に日本人十数名が参加しましたが、残念ながら入賞はありませんでした。因みに、活躍していた三菱のパジェロが有名です。
(皇太子殿下ご夫妻の公式訪問)
現上皇様が殿下時代にブラックアフリカを訪れられたのは、83年のケニア国、ザンビア国及びタンザニア国に引き続き、84年にセネガル国及びザイール国でした。
サンゴール国際空港から首都ダカールへの道中の歓迎ぶりは大変なもので、空港から市内までの約25kmの道々に大勢の国民が出迎え、ある者は昔風の民族衣装をまとい、ある者は当国独特の太鼓タムタムを叩き、そのリズムに乗って婦人たちが尻振りダンスをするというスタイルで、近年稀にみる祭り騒ぎでした。
(俳句コンクール)
79年頃より毎年日本大使館主催の俳句コンクールが開催され、当時約800のフランス語での作品が出品され、1等から3等までと、2つの敢闘賞の作品が選ばれていました。優秀な作品は、日本の「俳句」誌にも掲載されたことがあります。
(相撲)
当国には日本の相撲に似た競技があり、当時日本から佐渡ケ岳親方が来訪され、優秀な選手をリクルートし、日本に受入れる準備をしていたのですが、残念なことにアフリカの黒人によく見られる髪の毛のチリチリ頭を見られるとわかる通り、チョンマゲが結えないということで、この話はなくなりました。 (以 上)
浜田 栄